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四聖句

達磨大師が言われたとされる禅の根本思想。
「不立文字」(ふりゅうもんじ)
「教外別伝」(きょうげべつでん)
「直指人心」(じきしにんしん)
「見性成仏」(けんしょうじょうぶつ)
 
この4つの句は別々の独立した教えではなく、4句が繋がりあって禅のいうところの悟りの到達までの道標を示すものである。

 

○ 四聖句とは

不立文字

 

 これは“文字にして伝えることができない”という意味といわれる。禅においての悟りは純粋に経験をして体感するもので、それは文字として悟りを表現することはできないということを意味している。「以心伝心、不立文字」という言葉が達磨大師の書かれた「血脈論」という書物に書かれている。悟りや究極の真理というものは、人から人、師匠から弟子に、心をもって心を伝える(以心伝心)ものであり、決して文字や言葉で伝達するものではない(不立文字)ということである。また気を付けなければならないのが、文字や言葉で伝えてはならないというものではなく、伝えることができないものであるということである。 よって禅宗では文字や言葉での解釈以外の行動として坐禅の修行を行い、その経験から悟りや心理を得ようとしているのであると思われる。

 

 仏教の始祖である釈迦の教えを“教内の法”と呼び、これは仏教の経典を中心とした過去の知の集大成を表すものである。通常の仏教ではこの経典などをよりどころとし、解脱の道を模索していくのであると考える。しかし禅宗では以心伝心(こころをもってこころをつたえる)の考え方が一番大切なものであると考える。この以心伝心の真理や悟りを得ることを“教外別伝”と呼ぶ。
 当然過去の経典や先達の教えを読んで・学ぶことは大切なことであると定義はするが、最終的な心理追及には自己の経験に基づく自身の価値基準が大切であるということを説くのがこの教外別伝といえるのではないかと考える。(実際禅宗での書籍、文献はかなり多くあり、禅語や禅問答など文字や言葉で伝えるものは多数存在はする。)
 自転車に乗るためにいくら人に乗り方を聞いても、本を読んで勉強しても自転車にすぐ乗れるものではなく、実際に自転車に相対して乗って・転んでみてようやく乗りこなすことができるようになるのと同じことを示唆しているのであると思われる。
 真理追及のためには、修行を通したところでの経験が必要であるとの認識である。

 

 般若心経では不増不減(増えることもなければ減ることもない)という言葉があります。すべては空であるという教えですが、人は有増有減に固執してしまいがちであり、そのために心が曇ってしまうのではないかと言われます。この直指人心ということばは、“人の心をまさに指し示す”ことを表しており、「まわりの外の雑事に気を取られていては心理の追及には遠く及ばない。ただ自身の内なる心を見つめよ。」ということを示すことばではないかと思われます。禅語(偈)に“心とは鏡のようなものである”という言葉がありますが、良いものを映しても悪いものを映しても鏡はそれを素直に映し出すのみであり、鏡自体が良くも悪くもなることはない(不変)と言われます。心は不変で不増不減のものでありこの不変の部分に、人間の性である固執を離れて向き合うことが大切であるとの教えではないでしょうか。

見性成仏

 

 見性成仏とは直訳すると、自身に備わる仏の部分に気が付けば、それはすなわち仏であるという意味になります。 日本の南北朝時代に足利将軍との問答集として記述された夢窓疎石の「夢中問答集」という書物があります。この中で“大智”について述べた部分で、“知恵は煩悩を働かせる。知恵を働かせることをやめ、大智に立ち返らせることが必要である。”と述べておられます。さらに「酒によっている状態からハッとさめて本心に立ち返るようになる」ことが悟りの道であると書かれています。酔って飾っていた自分が、本来の自分になることが悟りであるということがこの問答集から伺えます。
 結局、修行を通して自身の心に向き合い(直指人心)、本来の自分になる(見性成仏)ことが大切であると説くのがこの句であると言えます。悟りに至る道筋は一人ひとり違うので、そのためには修行という経験が必要であり、その悟りとは自分の内部に存在するものであるというのが、この四聖句といえるのではないだろうか。